ちょっと睡眠をとりながら思った。
やっぱり僕は自分で自分の頭を殴り続けるおじさんのその行為を、パフォーマンスを観るような感覚で捉えていたんじゃないか。
もちろん、前提としてというか、考えるまでもなくおじさん自身がその行為をパフォーマンスとして行っているんじゃないと理解しながらも
僕の中に「ロッキー」という経験があったからそういう捉え方になってしまったということ。
だけど思えば、こういう「ある認知を強制される」体験は珍しいものじゃなかった。
僕は今の時期の早朝、朝と夜の間みたいな時間の住宅街の光景を見ると佐内正史の写真みたいだなと思うことがよくあるし
ゴッホの自画像やフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を見ると自動的に森村泰昌の作品が連想される。
こういった連想を強制するのが作品の力で、一度更新されてしまった知覚は記憶をなくさない限り解けない。
だから僕はその強制的な知覚を「呪い」としてじゃなく「福音」として作品に込めるようにしたいなと思った。
 
まだまだこのゴツゴツおじさんから学べることがあると思う。
一人の見ず知らずのおじさんとの遭遇がとてもいい経験になった。
また何か思いついたら書こう。