駄文ですが

錦織さんのブログを読むと考えさせられることがよくある。
今回錦織さんのブログを覗くと僕も常々考えている事柄について書かれていて
それに対する僕なりの考えを勝手ながら書いてみようと思う。
そんなんじゃねーよとか俺はこう思うというのがあれば聴かせてください。
僕のブログを観てくれてるかどうかわからないけれど。
 
今回は「日常」写真と「旅」写真について。
錦織さんのこの二つの事柄に対する考えはわからないのだけど
これらの事柄は写真をやってる人なら皆考えているものだと思うし
写真を撮る上で避けては通れない事柄だと思う。
 
「日常」と「旅」の写真が多い理由は明確だ。
言わずもがな我々の手の届く、見渡せる範囲すべてが「日常」
どこへ行ったって自分を起点にするとそこには「日常」が待っている。
すると、自覚なのか無自覚なのか「日常」をテーマに掲げた「作品」が自ずと多くなる。
方や、最近では「日常」という言葉にネガティブな印象を持っている人もたくさんいる。
作家や批評家がこぞって「日常から抜け出す」ことを口にする。
そこで「日常から抜け出す」方法のとして真っ先に浮かぶのが「旅」なのだ。
「日常」から逃れるために「旅」に出る。
しかしどこへ行っても「日常」からは逃れられない。
「日常」とは場所のことではなく「自分自身」のことなのだから。
 
錦織さんは須田一政さんを引き合いに出していて
彼の作品を異世界と表現していたけれど、それは「非日常」や「非現実」という意味ではないと思う。
須田さんの作品に写っている光景はどれも紛れもなく「日常」のもので「現実」のものだ。
しかし、彼はそれら「日常」と「現実」を「日常」と「現実」のまま異世界へと連れて行ったんだと思う。
 
僕は「日常」や「現実」から逃れるなんて不可能だと考えている。
というか、本来「日常」を作品にするなんて不可能だ。
「日常」を作品にするってことは「ありのままの世界」を作品にするということで
世界は作品にするには複雑すぎて人間の理解の範疇にない。
それに「日常」の中に「非日常」あるとか「現実」の外には「非現実」があるなんてのも幻想だ。
前にも書いたけど自分を起点にするとそこには「日常」が待ってるし
自分を無にできたとしても(僕はそんなこと出来ないと思う)そこには他人の「日常」が写りこんでくる。
僕たちはどうやったって手の届く、見渡せる範囲しか写真にできなく手の届く、見渡せる範囲には「日常」しかない。
ならやるべきことは「日常から抜け出す」ことじゃなくて「日常を別の次元に連れていく」ことだ。
別次元や異世界「日常」と地続きであることを信じて。