「絵画の庭」で思ったこと。

法貴信也の作品が気になった。

淀みなく走る幾筋もの黒い線とそれに並行して走る少し彩度、濃度の低い赤と青の線。
抽象絵画のように見えるけど、ポロックやフリズのように世界の意図を画面に落とし込んだようなものとは違う。
それは、一見ランダムに筆を走らせたように見えるその線が並行して走る赤と青の線があることによって完全な制御のもとに描かれたのだということが分かるからだ。
しかし、その精密な線は明確な、象徴的な図像を形作っていくわけではない。
じっと見ていると植物の葉が茂っているように見えたり、砕ける波のように見えたりすることもあるが、そう言った鑑賞者の画面に何かしらの意味を見出そうとする試みは、全体から細部、細部から全体という視点の往来の繰り返しの中で、次の瞬間には失敗に終わってしまう。
絵画に寄せられた解説を読んでいると「このモチーフにはこういった歴史背景や作者の思惑が隠されていてこういった意味があります」というようなことが書かれているのをよく見る。
法貴信也は作品をこういった意味に縛り付けることを良しとしない。
そこに描かれているのはただの、しかし紛いようもない線だ。
抽象画のようにも観てとれる作品であるが、線を線として描いているという点でやはり具象画なのだ。